相談員日誌

けんでぃーびすたの相談員ブログ

自分の死後の事を考えてみる

例えばあなたの趣味がフィギュアのコレクションだとします。様々なタイプのフィギュアがあり100体以上所有している事としましょう。眺めるも良し、カメラで撮るもよし、童心に戻りごっこ遊びをするも良し。

 

 

 

あなたには嫁も子どももいますが、皆全然興味が無い様子です。ちなみにフィギュアは専用のガラスケースに入れて保管しておりしっかりと鍵もかけているので自分以外は触れる事が出来ない状態にされています。そして、あなたは90歳になりフィギュアの数も5倍に増えました。自分の部屋の半分はフィギュアという状態にまでなりました。

 

 

さて、あなたが亡くなった後、家族はそのフィギュア達をどうするでしょう。

 

 

残念ながら、恐らく保管するという考えはありません。あなたにとっては宝物であったとしても家族にとっては全く不要なモノですから。粗大ごみで処分するか、良くて中古品専門店に売却するか。

 

 

人は誰しもモノを抱えて死ぬ事が出来ません。自分の身体一つで死んでいくのです。もちろん、莫大な金があったとしても、それを抱えて死ねません。

ただ、現金であれば家族は遺品整理の時にありがたく頂戴する事でしょう。人それぞれ感性が違うとはいえ、フィギュアは捨てても金は決して捨てたりしません

 

急に変な例え話をしてスミマセン。過去の記事を振り返っていたら↓

 

 

この記事を発見しました。この時は『写真』にターゲットを絞ってお話していますが、実際には様々なそれに限らず、様々な本人にとっては宝物であったはずのモノ達を処分する事になります。

 

価値観というのは、親と子でも随分違いますから他人の私なら尚更のはずです。しかし、いくら価値観が違うモノを捨てるとしてもモノに罪は無いのです。それらを捨てなければならないという謎の罪悪感にさいなまれる時があります。

 

逆に、大切にしているものが1つだったとしましょう。あまりモノにこだわりがなく、シンプルに生活していた人が長年同じ『かばん』を使い続けていたと。その方が亡くなった時、間違いなく「かばん」は一緒に棺桶に入れてもらえるか(燃えない部分があり無理かもしれませんが)形見として受け継がれる事になるでしょう。

 

他の人には全く価値の無いものであっても、それが限られており、その人を象徴する様なモノにまで昇華されていたとしたら、それは誰から観ても価値あるモノといえるでしょう。

 

あまりモノに執着せずに生きていけたらカッコいいなぁと思いますが、私がその境地に達するまでにはまだしばらく時間がかかりそうです。 

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