認知症は神からの贈り物!?
ターミナルケアが定着してくるにつれ、施設での看取りを経験する事が多くなりました。
人は必ず死を迎えます。事故や、不治の病で若くして亡くなってしまう方々がいる中で、老衰としてなくなる事が出来たらどれだけありがたいかと思う今日この頃です。
死に関したエントリーと言えば、以前下記のような記事を書きました。
遺品整理をする際、自分にとって必要なものであれば持って帰り、不要なものと判断すれば捨てると思います。
家族によって違いますが、大体9割方が捨てられるんですよね。本人は大切に使用していた歴史的にも価値がありそうなものであったとしても、それ以外の人にとって、それは家族であったとしても全く不要なものなのです。当然ですよね。
ですが、それがなんだか悲しい。所詮モノですが、その人が生きていた時に活躍していたモノ。それが処分されるのは、その人が存在していた証が捨てられるような気がして…(大型ゴミを市に連絡して捨てるのは私の仕事です)。
と、これは以前のエントリーに対しての付け加えです。
今回は「認知症は神からの贈り物」なのかどうかという話。
看取りを施設で行う際、その人が認知症であるか、認知症じゃないかによって対応が少し変わってきます。
本来、同じ人間なのですから差別せずに同じ対応をする事が望ましいと思います。しかし、それを心がけていても、やはり「認知症」と「認知症じゃない」方との差があるが故にそれぞれ変えていくしかありません。
人は自分が死を悟った時、死への恐怖が襲ってきます。これは当然です。
私も子供の頃、坂道を自転車で滑走しながら転倒する直前、それまでの短い人生のフラッシュバックが起こり、自分は死んでしまうという恐怖心が襲ってきました(その時転倒のショックで私は失神しましたが、大した怪我もなく無事でした)
そのような死を悟った時、認知症の方に言える事があります。それは
死への恐怖が薄いという事です。
認知症の程度にもよりますが、今まで私が看取りを行ってきた方々にその傾向が見られました。
様々な事に対しての認識力の低下がそれを招いているのだと思われますが、それを神からの贈り物と言うのであれば、その通りだなと思わざるを得ません。
死が近づいてきていても、その前兆すらわからないままにいつもと同じように生活出来る事を、単純に良いか悪いかで判断する事は出来ません。
しかし、亡くなる直前まで認知症にならずに自我を保ったまま、死が徐々に近づいてくる事がわかっている方々の死の直前の混乱ぶりを見ていると、それはそれで何とも言えない気持ちになります。
自分の死を受け入れる事など簡単な事ではありません。どれだけ長生きしていても、まだまだやり残した事がたくさんあれば、黙って死ぬ事など出来ません。
もし老衰で死ねるなら、その時あなたは認知症であって欲しいですか?それとも、認知症じゃない方が良いですか?
まぁ…それを選べたとしても、実際に認知症になるか、ならないかは誰にもわかりません…意味のない二択です。本当のところは
まさに神のみぞ知るといったところでしょうか。
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