相談員日誌

けんでぃーびすたの相談員ブログ

死に関してちょっとだけ

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先日の話ですが、利用者が逝去し居室からその利用者が納棺された棺桶が運ばれていきました。その様子を見たある利用者が私に話しかけて来ました。

 

『あの人はとてもいい人でした。凄く残念です。でも死んでしまったら棺桶だけになってしまうんですね。私も頑張って生きていかないと。』

 

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棺桶に入ってしまったら、その方が生前どれだけ良い人であっても何も発する事は出来ないし、動く事も出来ません。 当たり前の事ですが、目の前でそれを実感してしまうと凄く悲しい気持ちになるのです。そして『自分も死んだら同じようになってしまう』事が頭を過るのです。

 

私はどうやって返答したら良いかと思いましたが

 

『あの方の分まで私達が生きていきましょう。』

 

と言うのが精一杯でした。誰しもが『死』に1日1日近づいていますが、普段の生活ではそれをあまり実感する事がありません。しかし、高齢者や難病と戦っている方々にとっては『死』は我々が思っているよりも身近にあり、自分の死後を想定しながら生活している部分があります。私もこのような仕事に関わる事がなければ、『死』について真面目に考える事など無かったでしょう。ブログでも定期的に『死』についての記事を書いています。

 

 

よく人は、赤ちゃんとして誕生し、子どもになり、大人になり、老人になり、赤ちゃんに再び戻ると言われます。これは認知症に限った事ではなく、身体的にも精神的にも一度は大人になるのですが、それ以上に年齢を重ねていくと、再び赤ちゃん的な身体能力、または精神に戻っていくという事です。

 

当たり前のようですが自分でこの過程を体感すると複雑な気持ちになる事は間違いないでしょう。客観的に見ているからこそ、そのように見えるのであって、それが自分であればまた別の感情が湧いてくるのかもしれません。

 

私は今ちょうど次女の誕生を待ちわびています。しかし、その一方で先日利用者の逝去に立ち会いました。この広い世界では、数々の誕生と死去が繰り返し行われています。このあたり前の現象も、自分の身近な所で体感すると非常に感慨深い気持ちになります。

 

私がある利用者に言った

 

『あの方の分まで私達が生きていきましょう。』

 

という言葉は、綺麗事ではありますが私の紛れも無い本心でもあります。いつの時代も人はそうやって、過去を清算し未来へと一歩一歩進んで行くものなのではないでしょうか。

 

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