死んでしまったら終わり
私は職業柄、古い写真を目にする事がある。
入居者が逝去した後に身元引受人が遺品整理を行う。その際必要なものは自宅に持ち帰られ、必要でないものは施設で処分する運びとなる。
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私は所謂何でも屋さんだから、その処分品をゴミ袋に大まかに分別して捨てる役目も負っている。
遺品をジロジロと見る事は無い。個人情報的な部分もあるし、逝去した人の事を考えると他人にジロジロ見られたくもないだろう。
しかし、それでも何気なくふと目にとまる事もある。
それが今回の話の肝である。
過去の写真である。
身元引受人と言っても様々。実の子である場合もあるし、兄弟かもしれない。または親戚である場合もある。天涯孤独であったなら近所に住んでいた仲の良い知人であるかもしれない。
そのような人達にとって故人の写真アルバムが必要かどうか。
一枚二枚程度なら、思い出にとっておくかもしれない。
ただ、アルバム数冊(昔のアルバムはハードカバーでかなり重量もある)それを自分の家に持ち帰るかどうか。
結論を言えばほぼ捨てられる。
寂しいようだが、それが現実だ。
しかし、白黒写真でましてや90年近く前の写真。
歴史的な意味でも価値があるのではないだろうか。
いや、故人は歴史に名を残した有名人ではないから、そういう意味での価値は無いだろうが、古い写真というだけでそういった方面では価値があるのではないかと思ったりもした。
捨てるという事に関して言えば、その人が在りし日には、それらの写真を見返し、過去の楽しかった思い出に浸っていたのだろう。
そういった故人の歴史の1ページを普通ゴミで捨ててしまう事に罪悪感を感じてしまう。
もちろん本来これは私が背負うべき感情では無いとは思うが、直接的に最後に捨てるのは私なのだから、そう思ってしまっても仕方が無い。事実そう感じたのだから。
写真には幼少時代の故人が微笑んでいる。
私はその写真の束を容赦無く捨てる。
これは私の仕事であり、使命でもあると思わずにはいられない。
人の最後というのはもの悲しい。
死んだら最後
その人の歴史も全て焼却される。
唯一、人の記憶にだけとどまる事が出来る。
そんな作業をしながら、不謹慎である気もするが今、自分が生きている事を強く実感する。
人は誰でも死ぬのだから、最後に楽しかったと思える人生を送りたい。
そして写真はあらかじめ捨てるか、子供に譲っておきたい。
やっぱり捨てる事は悲しい。
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